ヒグマを求めて〜

黒田
なぁ、HUN…。ヒグマ見に行こうよ。

突然の提案で私は時計に目をやり、そして言葉を失った。

時刻は深夜──。25時を回っていたと記憶している。「そろそろ寝ようか」と思っていた私ではあるが、何となく嫌な予感はしていた。言葉を失った理由は“驚き”というよりは“やはりか…”という感覚の方が近いだろう。





時間は5時間ほどさかのぼり、場所は私や黒田、そして長谷の住む下宿・清風荘──。アルバイトを終えて下宿に帰った私は、何となく漂う“不穏な雰囲気”に気が付いた。

時間は20:00を過ぎており、他の部屋の扉窓からは灯りが漏れているが、黒田と長谷の部屋が真っ暗なのである。2人とも下宿にいるのは玄関に靴があることから確かなのだが、両方とも真っ暗なのはどうにもおかしい。

『超』のつく夜更かし軍団が2人とも20:00に寝ているだろうか…? 不審に思いながらも自分の部屋の鍵を開けていると、黒田の部屋からドアを開ける微かな音がした。

HUN
「うわ、ビックリした!何してたん!」

黒田
「……。」

黒田は薄く開けたドアから片目だけ見せ、ジーっとこちらを凝視したまま何も語らない。気味の悪い“間”が数秒続いた後、黒田の頭のすぐ上から長谷の片目がヒョッコリ現れた。





お前らトーテム・ポールか。






HUN、早く入って来いよ…

どちらの声とも判別がつかないほどの小声で、私は2人がいる真っ暗な黒田の部屋に誘われた。



(こんな時間からエロビデオでも観賞しているのではなかろうか…。)



夕食もまだ済ましていないので、そんな想像が足取りを重くする。


ギィ……


目に飛び込んできた光景は想像を絶していた。

そこは記憶にある黒田の部屋とは全く様子が違い、中央付近に置いてあったはずのガラステーブルや座椅子ソファーが横に倒した状態で部屋の角に移動され、まるでバリケードみたいになっているのである。そのバリケード内の狭い三角になったスペースから顔だけ出し、『早くこの中へ来い』と言わんばかりに手招きをしている黒田と長谷。


お前ら下宿で籠城でもしているのか?!


しかもビデオ鑑賞はビデオ鑑賞でも、一時停止されたテレビ画面には若い女性の裸ではなく、






巨大なクマが猛々しく映っていた。衝撃映像






足元に転がっていたビデオのパッケージには、赤い筆っぽい書体で荒々しく書かれた『マタギ』の文字。よく見ると黒田は玄関掃除用の中型ホウキをライフルのように真顔で構え、画面に向けている。



大学生が『マタギ』の参加型アトラクションですか?!



巨熊との再会をひたすらに求める老マタギと、チビ犬を見事なマタギ犬に育てあげた孫との交流を描いたこの映画を、大学生3人が6畳間の隅っこで身を寄せて、息を潜めながら鑑賞しているなど製作者は夢にも思うまい。

黒田は野生に近いせいかマタギ(人間)に感情移入するならまだしも、熊が鉄砲で撃たれて『グオーー』と断末魔の咆哮をあげた時には一緒になってガバッと立ち上がり、両手を高々と上げて


「マフーーーー……ッ!!」と切なく吠えたりもした。



終了後、ビデオを巻き戻しながら浮わ言のように

『クマを見たい。クマと戦いたい。』

と話していた黒田。私は黙って聞き流してはいたものの、言いようのない不安に包まれ始めたのであった…。





HUN
「クマを見に行くったって、動物園がやってる時間じゃないぞ?」

私がそう言うと、黒田の後方から「知床に行けば野生に遭遇する確立は高い」という長谷の声が聞こえた。黒田の右手には、クマを誘き出すエサのつもりなのか、国道沿いの『おだストア』で買ったと思われる生肉がビニール袋ごしに透けて見える。






こいつら本気だ。戦慄!!!






HUN
「お、お前ら…。野生なんて、遠くから見るなら良いかも知れないけど、バッタリ出くわしたらどうするつもりなんだ?」

長谷
「野生のクマは警戒心が強いから、音を立てながら歩いていれば至近距離までの接近を許すことは無い。」


なぜだ。なぜ学者でもマタギでも何でもないお前がそう言い切れる?


そう口を開きかけた時、黒田がTシャツの袖を肩まで捲くり上げ、極真空手で鍛えぬいた筋肉をムキッとさせてこう言った。




黒田
「オレが殺す。」






もう頭が悪いとかの問題ではない。







こいつは絶対、上腕二頭筋で思考している!!






そんな男に反論したところで、私のロジックなど彼の純粋な腕力の前に通じるとも思えない。行きたきゃ勝手に行ってくれ、という主張も虚しく、結局無理やり黒田の車に乗せられて出発するハメになってしまった。


年式の古いゴルフ(フォルクスワーゲン社)を勢いよく発進させた黒田は、ダッシュボードから120分テープを取り出してセットした。

ケースの背表紙にはマッキー極細か何かで殴り書きされた『ゴールデンパッケージ』という汚い文字があった。クルッと回して見ると収録曲がビッシリと書かれているが、


1.ルパン三世のテーマ'79バージョン
2.抱いて、ルパン
3.ルパン三世 愛のテーマ
4.ルパン三世のテーマ'80バージョン
5.マンハッタンジョーク
6.炎のたからもの
7.ラヴ・スコール
....etc



など、ここでは思い出せないくらいA面・B面ともにルパン一色である。







120分テープ全部ですよ?






しかも、よく見ると“ルパン”のスペルが分からなかったのか、途中までアルファベットで「Lupa」まで書いてグシャグシャと乱暴に塗り潰し、カタカナで「ルパン」と書き直している。曲名を書き並べるほどの記憶力があるのに、なにゆえ「Lupin」が書けないのか。



お気に入りのルパン全集を聴きながら、最初は『ポンポンポン♪…』とハンドルを持つ手の人差し指でリズムを取っていた黒田であったが、次第にノッてきてTVのオープニングさながら前屈みに身を乗り出して運転しだした。いかん。これは悪い傾向だ。

案の定、サビを迎えた頃には咥えていたタバコを山盛りの灰皿に突き刺し、パシーーッ…と煙を吐き出すと

する必要の無い車線変更をリズミカルに何度も繰り返す始末。(イケイケ状態)


これが120分ずっと続くのか? 私も120分延々と聴かされるのか? いや、黒田はバカだから、


B面の最終曲を聴き終わる頃にはA面の最初の曲を忘れて『もう1回聴こう』とか言うに決まってる!


もう私は想像しただけで発狂寸前だ。長谷も同様らしく、B面が終わったら即テープチェンジが出来るよう、別のテープを固く握り締めていた。
しかし2回目のA面がかかる頃には3人で








「♪おぉーーーとこにはぁーーーー 自分のぉーーー世ぇ界がぁーーあるぅーー!」







などと歌っているから人間、慣れというのは恐ろしいものである。(笑)

車外に声が聞こえているとは思えないが、信号待ちで隣に並んだ車のカップルが、我々の熱唱している様子を呆然と見つめた後、進路変更で逃げるように左折して行ったのが印象的であった。







で結局、クマはどうしたかと言うと、歌い疲れた時点で『温泉に行こうか』という話しになり、それっきり

トランクに積んだ生肉が腐敗臭を漂わせる数日後まで忘れ去られていた。



2005.8.3


これが大学で問題になった「異臭騒動」の真相である。