〜プロジェクトX(BATSU)〜
| 〜はじめに〜 この作品は“現在よりも何年か未来の話”という設定です。そのつもりでお読み下さい。 冷静に読み返してみると、いつものように思いつくままに書き殴った為に生じた『年代のツジツマが合わない点』もありますが、面倒くさいので直さずにアップします。ええ、面倒くさいので。 では、深く考えずにごゆっくりお楽しみ下さい。
平成10年2月14日 首都・東京を中心に他社を圧倒するチョコレートがデビューした。 今なお“チョコレートの革命”と名高い「ブラチョコ」である。 この日、ブラチョコは港区青山を中心に長蛇の列を築き、鮮烈なデビューを果たした。 だがそれは、ある一人の職人の苦悩の始まりだったことは、あまり知られていない・・・。 通称・HUN(はん)さんの呼名で親しまれる、日本洋菓子界の異端児・阪南 堂一郎(はんなん どういちろう)さんは今年で74歳になる。 終戦の混乱の中、チョコレートとチューイングガムに群がる同年代の子供達を目の当たりにした阪南さんは、米軍よりもむしろ『チョコレート』に激しい嫌悪感を持ったという。しかし、成人を迎える頃には、その想いを払拭すべく新しいチョコレートを手掛けたいと感じるようになった。それが洋菓子界に入るキッカケだったという。当時を振り返り、阪南さんは眼を細めた。
ブラチョコ発売後、「チョコを着る」から由来して「チョッキる」という専門用語まで生み出した阪南さんだが、それはあくまで次のプロジェクトの足掛かりに過ぎなかった、そう打ち明けた。 阪南 「今にして思えば、私らの方が(技術的には)他社より一歩先に進んでいたんでしょうけど、私らは“お口で溶けて乳房で溶けない”商品を寝ないで開発してましたでしょう?だから私らより先にM&M'sが発売された時は『やられたー』って思いましたよ。“お口で溶けて手に溶けない”でしたから(笑)。でも、本当にやりたかったのは『チョンティー(チョコ+パンティー)』でしたからね。落ち込んでなんかいられませんでした。ブラチョコとセットでチョッキってもらってさ、腹一杯チョコを食べてもらって、その流れで愛し合う。なんともロマンチックじゃないですか。はははは」 平成16年に発売されたチョンティー。 考案自体はブラチョコよりも先にされたのに、それよりも後から発売せざるを得ないほど困難を極めた商品となった。 それには多くの仲間の協力と家族の理解が無ければ到底発売には至らなかったという。 阪南 「チョコはさ、熱で溶けるでしょう?そんな代物を女性の“熱い部分”にあてがおうってんだから、工場の人間から『絶対に無理だ』って言われ続けましたね。でもね、その度に私は彼らに言い続けたんですよ。『愛を生み出すバレンタインチョコだからこそ、生命が誕生する場所にあてがわなければダメなんだ!』ってね。」 熱せば溶け、冷やせば脆く壊れる。 そんなチョコへの挑戦。試行錯誤の苦悩の日々が阪南さんを襲う事となる。
開発当時の阪南さん ミントを大量に調合した試作第一号。 試着したのは阪南さんの奥さん・和江(かずえ)さんである。 阪南 「一番正直に良し悪しを指摘してくれるのが和江でしたからね。それにしてもショックでしたよ。苦心してようやく出来上がった第一号をチョッキって、すぐに出た言葉が『これは出来損ないだ』ですからね(笑)。」 ミントが持つ独特の「スースー感」はあるものの、実際に冷却効果が期待できるはずもなく、数分で無残に溶け落ちたという。 昼夜を問わない開発が幾晩も続き、現在で言えば“クランキーチョコ”の原型とも呼べる試作二号が誕生したが、強度の大幅な向上と引き換えに、見た目を損なってしまうこととなる。 阪南 「こんなブツブツの付いたオシメみたいなチョンティーを誰がチョッキってくれるんや!ってね。自分を責めましたよ。焦ってたんでしょうなぁ。」 だが、“成功”は常に“失敗”から生まれる。 この二号をヒントに、パフの変わりにドライフルーツを採用したのである。強度はクランキーモデルよりも落ちたものの、花柄をあしらったかのような華やかさが生まれたのだ。しかし、ここで妥協しない阪南さんのこだわりが後の大成功を生むこととなる。 阪南 「(強度と見た目の)どちらが欠けてもダメだったんですよ。お客様の『愛した相手の口で』壊してもらう。その前に壊れてしまう可能性があるんじゃ意味が無いと思ったんですわ。じゃなければ愛は生まれません。」 スクラップ・アンド・ビルドの発想を当時から唱えていた阪南さんらしい考えだ。 当時からの従業員・山田 とん平(やまだ とんぺい)さんは、こう語る。 山田 「自分の信念から外れた意見には、頑として首を縦に振らない人でしたね。『これ以上の物は無理や、これがベストや』。誰もがそう満足していた中で、大将(阪南さん)だけでしたわ。恐い顔してはったの(笑)。」 ひた向きに二兎を追い続けたプロジェクトチームが辿り着いたのは“ベッコウアメ”コーティングであった。あくまでも“チョコである”ことに徹底的にこだわり、特殊な専用機材を導入することで“薄すぎず・厚すぎず”のコーティングを実現させ、ベッコウアメは補強材に留まらせる事に成功した。『これならイケる』そう確信したという。 それはチョンティー開発からちょうど7回目の春のことだった。
試行錯誤を繰り返す当時の厨房(阪南さん自身が撮影) 阪南 「あの頃はもう3食がチョコだったんじゃないかな。それこそもう、チョコと私の“戦争”でしたわ。『引いたら負け』だって気持ちでしたね。」 こうして現在の原型となった試作三号を歌舞伎町で試供した事により、徐々にそのテイスト、効果が口コミで広がるようになった。履き心地を追求するショーダンサーにせがまれ出したのをキッカケに、完全オーダーメイド制も確立した。現在では新人ダンサーがデビューした後、先輩のダンサーからこう言われる様になったと口々に語られる。 『阪南さんにチョキらせてもらえるようになれば一人前』 阪南 「素手で身体のサイズ・フォルムを計測するのが一番正確なんですよ。」 チョンティー発売直後からブラチョコとの“セットオーダー”が殺到しだし、寝る間も惜しんで計測を続けた阪南さんの右手には指紋が無い。数え切れないほど乳房や股間を触り続けた阪南さんの勲章だ。揉みすぎて手首が倍にまで膨れ上がったこともあるという。だが、阪南さんはテーピングをしてまで触り続けた。 阪南 「お客様がこれから一世一代の告白をしようってのに、こんな事で休んでは申し訳なかったですから。」 そう言って阪南さんは少年のような笑顔を浮かべた。 芸能タレント杉田かおるも、発売同年、阪南さんのチョコレートで告白したのが功を奏して見事玉の輿となり、長年の負け組人生にピリオドを打った。
阪南さんに届いた喜びのFAX 一介の菓子職人には留まらず、恋愛という形のないものまで“創り”あげてきた阪南さんだが、息子の阪南 信一さんが継いだ昨年の秋頃から引退を考えているという。 阪南 「もう長いこと職人として現場に立たせてもらってますでしょう。さすがに年ですね、無理も利かんようになってきてます。74って言ったら、もうそろそろ隠居してもいい頃じゃないですか。私みたいなのが上でつっかえてちゃ、若い者(もん)が伸びてきませんからね。」 孫の陽司君を抱かかえながら笑顔を見せる阪南さんだが、どこか淋しそうだ。 阪南 「孫にはね、無理にこの道に進ませようとは思っていません。『やりたい』と思えばやったらいい。正直やってくれれば嬉しいですけどね。親子三代でチョコ職人なんてすごいじゃないですか。」 チョコレートはバレンタインデーという舞台を引き立てる裏方なんだ、と阪南さんは語る。それは阪南さんの人生そのものなのかも知れない。 多くの女性をチョコレートの下着で送り出し続けてきた職人の技は、息子に受け継がれ、近い将来きっと孫にも受け継がれていくだろう。 阪南 「バレンタインデイ前にこうして女性を触っていると、気持ちがギュッと引き締まってくるんですよ。そして、チョンティーやらブラチョコができて、お客さんが身に着けて、そして愛が生まれていくんです。ここ10年ずっとそうなんですよ。引退したら?そうですね…どうしましょうか。チョコは作らなくても身体を触らせてもらえないかなぁ。ははははは(笑)」 今年もまた冬が来て、女たちが阪南さんを訪れる。阪南さんのチョコ下着を身にまとい、女たちは愛の告白をする。チョコレートに携わって56年間、阪南さんにとって何も変わらないバレンタインデーがそこにあった。 2005.2.19
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